今年は桜が満開になるのが早かったね
咲きはじめから満開までの時間が短ければ
ソメイヨシノは白くなる傾向にあるそうです
そういえば幹によっては
やけに純白の桜があるように見えます
毎年咲く桜も
環境の変化で微妙に顔色を替えるんですね
生きていればこその・・
お知らせ。
突然ですが、長年ご愛顧いただいたこのブログ「人生の料理」
2008年からはじまり、2015年3月末日
サクラの花がすべて咲き誇り
それを維持しているわずかな時間のなかで
桜と共に終了しようと想います
7年間、689話いろいろ想うことを書き連ねてきました
最初はパソコンを覚えるため文字打ちの練習ではじめたものが
知らぬ間にエスカレートしてゆくうち
たくさんの方々に読まれていることを知り
止められなくなってしまいました
暗黙の読者たちに・・(笑)
すべて私の主観に基づいての話ですので
多少偏見もあったかもしれませんがお許し下さい
正直ちょっと飽きた、というのが本当のところですが
散々想ったことを言い放ってみたあとには、人生を語らず
ただシンプルに関わる人に対して愛を持って
人生により深みを増してゆく充電をしたいと想います
今はただ、それを皿の上に表現することに集中します
いずれまた何かの折に違う形にリニューアルして
別のニュアンスのものを書くかも知れませんが
その時はまた止めどなくわがままな話につきあって下さいね
長い間たくさんの方々にご愛読いただき
ありがとうございました。
間もなくこのサクラの花びらも綺麗に散って
薄緑色の若葉が芽生えるころには
爽やかな風の中
誰にも新しい1ページがはじまります
それぞれの日々のルーティンの中で繰り広げられる
切なくも愛おしい物語にココロが揺さぶられ・・
時にその複雑さに途方に暮れて
狼狽の淵に立たされ陰鬱な感情を抱き
時には限りなく凡庸でも
軽妙洒脱な中から発せられる優美な芳香が鼻先をかすめ
その放たれた若草のエキスを
より好みすることなく充分に吸い込んでみれば
やがて遠くへ飛ぶための翼幅は大きく広がって
旅の途中で人々の瞳の色は深みを増してゆく
誰もが一生涯
何かを追い求め続ける青年でありますように・・
そうすれば幾つになっても老け込むことはないね (笑)
何かを解った気になって、どうせこうだから
・・なんて小さく纏まり諦めることが多くなれば
人はどんどん老けてゆくんだろう
何かを視切って時間を経過するだけの
消化試合みたいな人生はごめんだよ
小さな要塞の、小さな安全地帯で、何にも触らないように
自を守るだけの人生なんて面白くもない
誰だっていろいろあって
ブレーキがかかるポイントはたくさんあるけれど
川の流れを止めた瞬間から、その水は濁りはじめるのだから・・
流れを止めるということは
すまわち変化しないということで
そこは一見静かで穏やかに見えるけれど
病巣がはびこりやすい場所となる
人生に勝ち負けは確実に存在する
勝ち負けなんてない、なんて
今時の小学校教育みたいな絵空ごとは言いたくない
そんなことがすべてではないが
ある程度のウエイトは確実に占めているのだから
それは自分に対しての内面勝負が主になるけれど
時には外への勝負に波及することもある
それが現実で、なぜかそうなってるのだから
いいか悪いかを論ずるだけ野暮な事実
少なくともこの社会では・・
それを真正面から受け止めるか
言い訳しながら横をすり抜け話を替えるかのどちらかだ
どの路チャレンジして戦えば良くも悪くも結果は出るし
チャレンジしなければ何の戦いすら起こらない
やるか、やらないか・・ただそれだけ
戦いもせず屁理屈を上塗りするだけなら寂しい路のりになる
何度も負けて、何度も勝って
徐々にコツを掴みながらレベルを上げてゆく
細かな勝負に勝ったときは、小さな達成感を味わい
負けたときは、潔く負けを認めて次に繋げればいい
その潔さがなければ、どんどん精神は歪んでゆくものだ
たとえ嫌でも目をそらさず正面から受け止めて
深く噛みしめてみなければ次の吉に繋げてゆけないもの
スポーツと同じで、それがずっと続くゲーム
休憩したっていい
時には試合放棄するのもぜんぜん自由
ずっとファイティングポーズでいれるならそれもいいけれど
戦い続けられたからいいわけでもない
なにが正しいかは誰にも解らない
人により、タイミングによる・・
でもいつだって必ず相手がいるのだから
想いやりを持って
相手の気持ちを痛いほど想像することだ
そう、何よりも人の気持ちを想像できる器だけは
夢の途中で必ず養わなければならない
ただただ優しさが必要なときもあれば
突き放さなきゃいけないことだってある
みんなお互い様だから、それだけ心得ていれば
踏み込んだ一歩を正解に替えるのは自分次第の旅路となる
だから若いうちは失敗を恐れず何度でもチャレンジして
勢い余りつんのめって転げてしまうほど走って走って
興味のある何かを探究しながら
自分という生きものを見つめてみればいいし
経験豊富な年配方は、年を重ね何をやり終えたとしても
人間まだまだなんじゃないかな?
人生にゴールなどない
あるとすれば自らが勝手に最終線を引いているだけだろ
ずっと、ずっと死ぬまで探究して
自ら変化し続けるための旅路
それをなにも力むことなくさりげなくやれたら最高だな
この先皆さまの物語の一齣に
アガペでの場面が出てきたら幸いです
やがて桜は散り、相変わらず季節は巡れども
人生の意味を知ることはなし
走ってる間のほうが、ほんとうは夢の中で
時々覚醒する瞬間はあれ、ほぼすべてがはっきりしない
それをもっと鮮明にしたくてまた走りだす
人は皆不安だから・・
その過程でいちいち理由付けをし、何かを解った気分になり
それをココロのよりどころにしたいだけかも知れないね
そもそも生きることに
理路整然と語れるような明確な意味なんてないんだろう
あるとすればこの骨身に伝う激烈な痛みと快楽の混ざり合った
圧倒的な感触だけ
その閃光を肌で感じ目に焼きつけるだけで
言葉では言いあらわせない生命の尊さは充分に伝わってくる
たとえ意味とか理由を確定したいとしても
そのすべてが正解で
そのすべてが誤りにもなりうるのだから・・
それは個々の境遇とエネルギー量により異なり
誰彼似たような話でも
細部が違えばその落とし所は微妙にずれるもの
そんな境遇の違う相手に対して
我こそが正義だ、これが正解だと言いたくなるのが
人間の、人間ゆえの、愚かさだ
正解は人の数だけあり、誤りも人の数だけある
だから、絡みあい縺れあい影響しあう過程で
道を選択するのはどんな時も自身の意志である必要がある
ぼやぼやしてると自分の意志とは違うところで
知らぬ間に人生が誘導され乗っ取られ
不本意にことが動いてしまうよ
それは不幸なこと
魂に選択の自由があることは幸福なこと
そこには同時に誰のせいにもできない責任が発生する
自分の価値は自分が決めるものだからね
そうやって自らの内外で取捨選択と離合集散を繰り返したあと
籠ったような自論でガードし
人も金も知識も物質も集めることをさんざん経験したら
そんな’集’で落ち着きどんどん頑なになってゆくのではなく
最終的には
それらを解き放した’散’で終われればおそらく快感だろうな
それはセキュリティーの固い要塞のなかに
理屈とわずかばかりの銭を持ちこんで閉じこもり
ちょっと安全な気分になりながら反りかえるような
裸の王様になるのではなく
どこからでも攻め込めるような野原に
ノーガードのまま立ちつくし
何も恐れないでいられるただの人になるということ
この桜のように、さらにパブリックに解き放して・・
やがて時は流れ
誰かのココロの中に残るものは
柔らかな温度を帯びたまま
泣き叫びながらただひたすらに走り抜けた
その人の気配だけ
可憐に咲き誇ったはずの
あの花の気配だけ
そう、いつだって立ち去るものだけが美しいのだから
あとには燦々と陽射しが降り注いだ若草の生い茂る野原に
ただ風が吹き抜けるだけ・・
人生とは・・
エスプレッソとビスコッティーをかじり
甘さとほろ苦さを堪能していたら
たまたまその横に置いてあったグラッパの
そのキツいスピリッツを同時に口に放り込み
それであわててる間に
ただただ過ぎ去った美しい映像だけが
目の前を流れ去ってしまうスクリーンを
なぜだか遠目で眺めてるよう
でもその慌てた口の中をよくよく噛みしめてみれば
案外ビスコッティーとグラッパが
いい雰囲気を醸しだしてたりして・・
結局理由などなにもわからず終いで地団駄を踏んだままだけど
それでもやっぱりそんな意外な何かを求めてしまう
ただその道のりで一つだけはっきりと言えることは
苦しみよりも楽しみのほうが多いということ
そしてそれぞれの人生に与えられたその苦しみや困難は
必ず乗り越えるべきだということ
人生は残念ながら不公平で
その事実を受け入れてもなお越えなければならないことがある
それには楽しみで頭の中を埋め尽くした者勝ちだ
それは自ら意図して変換できるってこと
困難はいらぬ時に勝手にやってくるけれど
楽しみはいくらでもどんな時でも自分から探し出せるのだから
苦しみのほうが多いとしたら、ただ探してないだけだろ
もしも苦しみ癖がついてしまったときは
海とか山とか空とか眺めて美味しいものでも食べたあと
くだらね〜!って一度だけ吐き捨てたら
ただちにその脳髄に楽しみをドクドクと止めどなく流し込むのさ
たとえばとても笑う気にはなれないときでも
せっかくだからその瀬戸際をあえて愉しんでみることはできるし
そう想えば少しは笑えてくるもんだ
キツイときに笑えた分は
長い人生に振りかかる毒を克服する強力な免疫に変わり
自らの器を大きく広げてくれる
だから絶対にココロの泉を腐らせちゃいけない
それでも時に濁るのだけど
次々止めどなく新しい水を流し込めばまた澄んでくるものだ
それには不幸のなかに浸りながら頭を一杯にするより
幸せを手のひらに拾い集めて心に強く浸透させる
息を吸って吐いて
普通に両足で歩けてるだけで幸せだということ・・
誰かと話そうと思えば他愛のない話ができ
見たいものは見れて
遠目で気にしてくれている人が必ずどこかにいる
あなたを必要としている人が必ずどこかにいる
その当たり前の幸福を改めて見つめてみれば
その中にエネルギーの息吹はいくらでも芽吹いてる
不平不満に支配されてしまえば
エネルギーは魔界に吸い取られ、頭の中が複雑になり
そんなシンプルなことに気づかなくなるものだ
不幸に浸り、まるで被害者のような顔をしながら
すでにそこにある幸福を感じられないのなら
厳しいようだが実は自らのエゴイズムと怠慢を
あらためて露呈していることになるのかも知れないよな
何があろうが、たとえどんな理不尽の中に居たとしても・・
小さなことに感謝できない人生は
絶対に好転しないというロジックがある
劣勢の中、それでも感謝できたなら
枯れ井戸に水が湧き出すように何かが一つ開眼する
その聖水にはメッセージが沁み込み
ひとりひとり、誰ひとり、この自分自身ですら
必要で、大切で、価値のある人間であることを訴えかけてくる
ただ旅人はみんな未完成で
未熟さゆえの出会いと別れがあり
人間ゆえの素敵さと愚かさを
その光と影を同時に持ち合わせているだけだということを・・
その繋がりの中で
自らの骨身を磨り潰すことと引き換えに視つけだせる
サファイアやエメラルドが隠れている
安泰の中では絶対に視つけられない宝石がある
本当は人生に不幸などないのかもしれないね
あるとすれば不幸だと錯覚して思い込み
自分で自分を負の連鎖に誘導しているだけかもよ
だからどんなことがあろうが幸せしかないと想い込めば
自動的にそういう空間に入る
それでも、人生という旅路のスクリーンに映し出され
朝陽に映え、夕闇に溺れ
その激流に右往左往してしまう人間という生きものは
やっぱり愛おしくて愛されるべき生きものですね
愛は万能で全能で
だから愛なんて薄っぺらく簡単に語れるものではないけれど
自らの努力だけではどうしても埋められない隙間も
すべて包み込んで溶かせるものは
もはや愛というものしかなさそうだから
そうは言っても・・ガラス玉の指輪みたいに
愛のようで愛でないニセモノが
ここには多すぎるよ
本当は、自らを守りたいだけの
ただ、見返りを求めてるだけの
愛まで昇華できないそれを
愛だと信じたいだけの
悪意のないニセモノたちが・・
どんなに優しくても、どんなに調子よく楽しくても
どんなに誰かを思っている言っても
その性根がただ単に
自分が救われたいだけの執着や駆け引きならば違うし
何も言わなくとも、違わないものは違わない
それはただ個々の根っこから発している波動の輝きによる
受け入れ、許し、包み込み、与え続ける・・
言葉にすれば簡単だけど半端なことではない
もしもそれができたなら
他を追随させないほどの強烈な閃光を解き放ちながら
本物のダイヤモンドリングが現れる
そこには
肩をすぼめたような駆け引きも、しがらみもない
ただひたすらに解き放された強烈で眩しい光のみ
もしかしたら人は皆
スッタモンダしていろんな思いをしながら
人生という旅路を歩き続け
ソイツを探してるのかも知れないよね
自分の内側にも、外側にも・・
愛という名のもとに
たとえば命をも差しだせるほどの
その究極の自己犠牲を
気がつけば
もうこんなに遠くまで歩いてしまったアルケミスト達は
いまだ長い旅を続けている
乾いた街角にオアシスを見つけ
人の温もりに静かに微笑んで
ときどき通り過ぎる美しい景色に魅せられ
かすかに感謝の涙を浮かべながら
もはやなにも欲しがらない
だだ一つ
本物の、その無償の愛(agape)の湧き出す泉を探して
深い瞳を携えたまま
茜色の遠い空を見つめ
また、歩きだす
皆さまの旅路に幸多かれと祈りながら・・
終
2015年3月吉日
agape chef
真中 陽宙
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新しい明日へ

明治通りのサクラ

アガペ カーザ マナカにて