2016年11月11日

人間の証明


"大切なものが何もなくて生きていると言えるか?"

とある映画のセリフが刺さる




人はずっと想いに囚われる




もしもすべての執着や煩悩を捨てたとき

その人は、その魂は、完全体の幸福を手にする



人間の不幸とは

どこまでも我が主観から抜け出せないこと

どこまでも自分から逃れられないことだ



だけどさ、その主観を消し去り

何にもこだわらず大切なものが何もなくて

人は生きていると言えるのか?



何にも執着せずもっと大きな愛ですべてを包めるなら

もう人じゃない、神だね



そしてそれを望み語り明かす人はたくさんいる



その方への受け答えは

できるだけ心がけたいものです。

・・それくらいでいい


しかしその手のことを過剰に推奨し感化する人もいる



ならば・・

やれるもんならやってみな



それはたとえば

国籍も違うなんの接点もない見ず知らずの他人のために

なんのためらいもなく我が命を捨てられる

その自己犠牲を平気でできるってこと


我が子のためでもなく、親兄弟または恋人のためでもない


全く知らない人のために自分が例えば殺されても

その人が救われるならいいと

そのためならこの我が命にも執着しない



それ、できますか?



それができるなら

貴方は人間の修士課程のすべてをめでたく修了しました


これから貴方は晴れて神様です!



だいぶ極論だが極論の踏み絵を踏ませてみれば

本物か偽物か一発で解るから

身近に綺麗ごとを並べる胡散臭い人がいるなら

試してみればいい、ほぼ瞬殺だろう



そこへ行けてる人

世界でも過去1000年にほんの数人しかいないだろう



我こそがその聖人になった気でいる多くの人間たちは

やがてその傲慢な主観から他をマインドコントロールして

神の代弁者のような顔をしながら、人を欺き、傷つけ

金品を無心し、やがては殺し合いをはじめるものだからさ



しかも自分だけは常に安全地帯に居ながら

私腹を肥やしているのだから笑える

そんなセコイ聖職者まがいが世界にどれくらいいるのか?



すべては ”神がそう言っている、神のお告げである” と

妄想肥大したただの人間が言ってしまえば

そんな簡単で都合のいい人間の支配構造はない



それはこの世で最も大罪と言ってよい

神の名のもとに金品を搾取でき、人も殺せるのだから・・



最近では韓国のパク・クネ大統領も、親の代から

その類のエスパー一家に支配されていたのだろう



神からのメッセージだなんだと孤独な有力者に近づき

終いにはずっと寄生して金や利権を搾取し続けるのだ



無差別に冷酷に人を欺き殺せる悪魔も

無差別にすべてを愛する神も

紙一重・・似た者同士


英雄を求めるなら悪役が必要になる

それが原理


そして悪魔は巧妙に神を装うもの

愛を装うもの

英雄と悪党は紙一重



神だ神だとしつこい人間に出会ったら泥棒と思え!

正義をひけらかす人間を見たら悪党だと思え!



人間の頭脳でこしらえるものはそれくらい危ういもの

この世のすべては人それぞれの主観がもたらす現象となる



もし神が居るとすれば

人の主観の損得勘定など遥かに超えてすべてを共有する



それでも人は善としての神を信じたがる

その反対側に悪を置きたがる


善悪とは人間中心の主観で身勝手につくりあげ

さらに人それぞれの主観で異なるのだから

その想いに囚われている以上

どこまでも対立と争いは必然的に続くことになる


神という名のもとに・・


人間の不幸とは主観に囚われること

そしてある主観が他の主観を誘導し洗脳するもの

一度信じてしまったものはなかなか否定できないもの


それが人の主観の特徴だ


だから人が想う神が本物の神である確率は低く

ほぼ偽物と言っていい


信仰や宗教を否定するわけじゃないけれど

伝言ゲームは最後に全然違うことを言い出すもの


それは人間の主観の仕業である


それぞれに都合のよい神をこしらえ純粋なものを支配し

やがて必ず内外に対立軸をつくり

自分達だけが選ばれし正しい者と信じはじめるのだ


勧誘して仲間を増やし部外者は軽蔑するようになる


その瞬間に元々は神聖な神であったとしても

人の主観が作り上げた詐欺師の神に入れ替わる


神は人の主観のフィルターを通した瞬間に偽物となる



皮肉なものだ



本物の神はとうとう人間の主観の外側

目の前にいても決して手の届かない

そのパラドックスのなかへ逃げ込むしかない



人は誰もが自分の情熱の虜

どこまでも飛躍したがり身の丈を超えてゆく


でもどんなに修行しようが滝に打たれようが

たとえば瞑想に更けて自然と一体になれた気になっても

その主観からは抜けられない


元々は醜態を晒しまくり

いい格好してけっこううまくやれてる気になったり

勝手に落ち込んだりするのが人間なのだから



それでもまだすべての主観と執着を捨てて

大きな大きな愛を持って人々を救済し

その反動でこの命と引き換えに我が苦からも抜け出せる

そんな絶望的な究極の地を望むのか?


又はあえてずっと

未熟ゆえの苦と共に寄り添い歩くことを受け入れ

それをこの腹のど真ん中で割り切る度胸があるか?



聖域の極地から逃げるのも度胸がいるものだ



それがもしもできるなら

特定の執着を持ちながらも・・

慢性的で一定の苦しみを常に受けながらも・・

それによる醜態とか顰蹙を

時には世間様に晒しながらも・・


人生はずっと笑っていられるかもしれない



すみませんね、だって私

”人間だもの” って

どっかで聞いたようなセリフを吐きながら・・



強烈な我が主観を心得て、連鎖する行動を知り

我が身に降りかかるすべての幸福も困難も

そこから派生するものだと理解すれば納得がいく


ぐうの音も出ない自我をこの腹の真ん中で受け止めたら

素直に省みることもできるだろうし

頑なな主観がもう少し柔らかくなるかもしれないしさ


その腹が決まらないから・・


自分の芯を視ようともせずに幻想に明け暮れ

その主観から自分でこしらえた苦難だとは認めないで

ずっと拒絶するようになる


更に固い自我の鎧で自己防衛しながら

他に責任を転嫁し攻撃し

その根をすり替え自分で自分を偽り続け


やがて人は壊れてゆくんだ





寒い寒い11月の空の下

ふと想ってしまったこと




そしてこの話もまた・・強烈な・・我が主観だから笑える


残念であり鬱陶しいものだね



誰もがこの”我が主観”というものに

どこまでもつきまとわれることが

人間であることの証明・・宿命となる



だからいち人間の主観から発するものに

確定できる真実などなにもないのさ


その主観は時の経過と共にコロコロと変わり

常に流動するのだから・・


多くの主観が集合して

その相対性の中でのみ現象は確定される



唯一いっさいブレずに信じられるものがあるとすれば

人の奥の奥の芯の部分に微かに光る愛だけかな?


人々はその愛を変わらぬものとして憧れるけれど

それすら残念ながら多くはまがい物で

ただの利己的な執着を愛だと仮装し夢想して

この街の隅々に沈殿する



愛とは他のために自己犠牲をも厭わない姿



お互いが自己犠牲をも厭わなければその愛は完結する

それくらい壮絶で、なま易しいものじゃない



世間でもてはやされる "優しさ" とか ”思いやり” は

施す側の自己満足・・愛は自己犠牲

似ているけれど全然違い、真逆の行動に出ることがある


それらを同じものとして扱えば

結局誰かが傷つくことになる


自分が誰かのために犠牲になるのが嫌なら

それは愛ではなく自分だけが守られ救われたいだけの

他人への貧しくて卑しい執着となる


執着とはたんなる打算に過ぎず

逆に自分以外の者を犠牲にさせてゆく



凡人は世界のすべてに対しての愛など持てるはずもなく

せめて自分の身近な者にだけならできることがある


それは心の中の何パーセントだろうね?



それでも愛は愛

正真正銘の愛だ



愛は誰もが宿すことができるけれど

誰もが持っているわけじゃない



それは人間である以上最も大切なものとして

世界中で語り継がれ、唄い継がれるけれど


それでもずっと持ち続ける自信もないから

気を紛らし、笑い飛ばし、酒をくらい、目をそらし

一時的に自分から脱走しながらも、また連れ戻され

どこまでも自分のことなど理解できないでいるのが人間だ




大切なものを探し

そのためなら無条件で力を注げる存在を探し


そして慢性的な自分との対峙にずっともがきながら


綺麗なものとして、一番強いものとして

変わらぬものとして、すべての不安を取り除くものとして


愛というものに、また憧れてしまう




唯一自分から逃れられる方法があるとすれば

我が箱のなか身を自我の代わりに愛で充満させるしかない


自我の居場所が無くなるほど

愛によって自分を消し去る


愛らしき偽物で埋め尽くすのではなく

正真正銘本物の愛でだ


そんな果てしなく気の遠くなるような作業ができるか?


お伽話の中でそれは

神の世界に行くことに等しい



そりゃ、無理な相談だな



未熟であることを前提として

いがみ合い、また助け合える


巡り合ったものを大切なものとして認識するまでには

多くの時間を費やすものだ


すべては未熟であるゆえの問題が生じ

未熟であるゆえの自分を愉しみ

時にくたびれて自分から逃げたくなり

その副産物に味わいと深みが生まれる



その有さまはそれぞれの主観により

どこまでもフリーハンドで描くことができて

地球という大きな画板は常に色合いを変えてゆく



それはこの晩秋の紅葉のごとく美しいかもしれない

または荒廃した廃墟が続くどす黒い景色かもしれない



人も厳しい環境で揉まれながら鮮やかに紅葉する

大きな地球の色あいを決定するのもその個々の主観による



世界中が極右のナショナリズムと

そのポピュリズムを推奨し

自国だけの利益を追求しようとする時代に入りつつある


まるで戦前に戻ってゆくようだね


その自然発生する大衆迎合も一つの主観洗脳であり

偽物の神を信じる構造に等しい



これも大きく見れば人間という生きものである以上

受け入れるべき自然の流れなのかもしれない



みんなでいくら探したって

確定できる真実などどこにもないから

それぞれが個別に描く大切なものの存在が

せめてもの生きてゆく糧となる



この世を混乱させる元は


本物の神と偽物の神

英雄と悪党

愛と執着

利己と利他


それらの境目が人間の主観のなかで曖昧になることによる




この世で信じられるものは


偽物だらけの神じゃない

人の心の奥で微かに光る本物の愛だけだよ

やがてそのミクロの光が大きな地球を救うはずだ

と、我が主観がつぶやく



いやいやそれは違うよ

大きな神を信じればミクロの個々が救われるのだ

と、別の誰かの主観がつぶやく



それでいい



いつだってそれくらいの位置に居続けることが


人間であることの証











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posted by 真中 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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