2016年09月25日

罪深き役得


ユダヤの財産を差し押さえ

アウシュビッツに送り込んだナチスの戦犯

アドルフ・アイヒマンの裁判ドキュメントを閲覧した




彼には一切罪の自覚がない

すべて上官からの命令に従ったまでだと・・


良心の呵責はなかったのかと検察に問われれば

本意ではなかった・・しかしやるしかなかったと



ある意味それが本心なのだろう



見たところ卒がなく

知能レベルの高い事務方といった雰囲気の男である


おそらく当時の時代背景の中で一個人が抵抗したところで

簡単に潰されたであろうことは容易に想像がつく


不幸な時代、不幸な立場に遭遇してしまった

そういう運命だった・・私もまた一被害者



そういう側面も確かにあるだろう

ただ彼は、ひたすらそれで片づけたいのだ



しかし何百万人もの命と引き換えにしては

とうてい釣り合いっこない答弁である





都庁にもまた

わが身案じて自覚のない人々


おそらく都庁に限ったことではない


この社会には

前後上下左右の繋がりから出来上がる空間のなかで

最終的に有益な落としどころを想像せずに

個々が断片的な作業をひたすら繰り返すことで

安住できる人々がことのほか多いのだから


どちらかと言えばその類のほうが多いかもしれない




最少ミクロの”個”で

それぞれが時として体制にブレーキをかけられないのなら

この世はすべて誰かのせいで済まされる




ユダヤは痛み、都民は痛むけれど

彼らには痛くも痒くもない


ただ上官からの命令である、と



ひたすら惰性に乗り込めばいいのだから




それで良いのなら

それで自らの生活が守られるのなら

それは罪深き役得である




どこにでもありうる伏魔殿の正体は

特定の有力な誰かではなく

関わるすべての人間が断片的な作業に徹して大筋を案じず

その役得に胡坐をかいたことによる



誰も一切罪の自覚がなく

悪気すらないのが伏魔殿の特徴である



”誰かのため”などという公明正大な大義は存在せず

誰もがどこまでも自らの保身のための処理作業をこなす


私はこれで自らの賃金を得るための仕事をした、と

それを明確に証明したいだけだ


それが全体像の中で有効であるか

最期まで丁寧に繋がってゆくのかを追跡することすら

そんな思い入れも情熱もなく

個人的に知る必要もなければ興味もない


ただ私のしたことに対しての

見返りである現ナマが支払われればいいだけの

無機質な作業ロボット



結果パーツがチグハグで繋がらなくなる



どんなに影響力の薄いパーツであれ

自らの作業を無機質にこなすだけの

全体を案じない者が集まれば

その組織は屈折し衰退がはじまる


何のため、誰のため、自らが携わるパーツがあり

それをどこへ繋げれば効果的か

その象徴的で初歩的なトータルイメージが欠落している



その循環が潤わなければ

組織は個々が分裂し無駄な経費が上積みされた

非効率で利己的な伏魔殿と化す



悪い習慣は長い月日をかけて組織に浸透し

いずれ誰も感じなくなる



豊洲移転のように一度問題が起きれば

ガバナンスをしっかり見直せ

というハード面の議論になるが

いくら体制で管理しても

ミクロの個々が無意識無関心ならば意味がないのであり

やがてそのガバナンス自体が道を誤らせる根源になりうる


かえってガバナンスにこだわり過ぎるから

無責任が発生する

それが極論だろう




たとえば反逆罪で処罰されようとも

たとえばそれにより自らが不幸の地へ追いやられようとも


たとえばそれが

吹けば飛ぶような微々たる抵抗であったとしても


勇気を持って個が流れを変えるしかない



そういう場面が

時々ある





すべては最小ミクロであるそれぞれの個人が

自らを浄化するしかなさそうだ





たとえば戦争に突入するときだって

得体のしれない伏魔殿が大きく作用するのだから・・













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posted by 真中 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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